・・・本の紹介U


「氣」の威力

藤平光一
講談社
1990年4月20日第一刷
1500円

 私にとって、運命的な本である。先日も、職場の同僚に進呈したものだから、リストを作った
 時は、手元になく載せていなかった。また買って、また読み直した。最初に拝読して以来、これ
 までを思うと、この本ほど、ここまで自分の生活、信条に影響を与えた本はない。

 最初に読んだのは、何年も前の、夏休みの帰省の折。新幹線の中で読もうと買った。元来、
 「氣」だの「超自然物」が好きだったから、その時も書店で見かけて購入した。同時に買ったの
 が、津本陽さんの「黄金の天馬」・・・全くの偶然であったが、不思議な巡り合わせであった。

 全体的に、文章が権威的で、体験談の中の著者には近寄り難いものがある。講談社の宣伝
 文句も、いかにも凄い方かを伝えようとしている。「広岡達朗、王貞治両氏が伝授された「氣」
 の秘伝、ついに公開!!」・・・というように。

 しかし、そんなものではないのだ。著者は、生涯をかけて体得した「氣」というものが当たり前
 のものだと知っている。完全に天地自然の法則に則った姿に自信を持って、語られている。だ
 から、飄々とした説法が、天地の姿を当たり前として語られるものだから、権威的と勘違いして
 まう面がある。


 著者は、病弱な幼少期から、一転柔道を始め、力が着き始めた頃に、胸を打って、肋膜炎と
 なり、再び氣の弱い生活に戻る。そこで、山岡鉄舟の生き方を書いた書物に感銘し、弟子が開
 く道場に入門する。禅から始まり、過酷な禊の修行を行い、いつのまにか肋膜炎が完治。修行
 による徹夜の連続にもかかわらず、学校へ通う。

 再び始めた柔道で、強くなっているが、大きな者が有利な柔道に疑問を感じ、合氣道の門を
 たたく。植芝盛平師に向かい、投げられたと思わぬ間に何度も転がされ、求めていたのはこれ
 だと即入門。最初は、まったくかなわかったが、徹夜修行で力の抜けたときに、相手に倒され
 ないことに氣づき、力を付け始める。

 そして、戦争への召集。初年兵いじめも、その機転で乗り越え、同時に、絶対に部下に手を
 出してはいけないことを実感。優秀な成績で予備仕官学校を卒業し、大陸の前線に配属。そこ
 で、真の死の恐怖と向き合い、臍下丹田に力を込める禅の考え方では不安をぬぐえないこと
 を知る。そして、臍下の一点に氣を鎮めることを悟るのである。そうして行軍すると、敵の待ち
 伏せをも氣づくことができるのである。

 戦争という状況でも、自分に修行を課し、苦しい行軍でも一日200回の呼吸法を続け、真の
 呼吸法を体得される。そして、唯一、一人の落伍者も出さず、部下を励まし、現地の人々に助
 けられ、日本に戻る。ここでも、氣を抜かず、翌日から畑仕事に精を出し、植芝道場に通い始
 める。

 ただ、どうしても師のようにスムーズに技がかからない。たまたま紹介された天風会で、中村
 天風師と出会う。ここで、心が身体を導くということに氣づき、心身統一を確信する。

 その後、ハワイでの合氣道の普及に単身向かい、ここでも、現地の大男に技をかけながら、
 真の合氣道に磨きをかけていく・・・・

 多くの人を指導されてきて、その中の一人がたまたま、王貞治である。一本足打法は、心身
 統一の指導から生れた。

 現在、栃木で財団法人氣の研究会を主宰され、氣により、多くの人々の健康な生活を導いて
 いる。


 この本と同時に読んでいた「黄金の天馬」は、他ならぬ植芝盛平師をモデルにしたものであ
 る。その中での植芝盛平師の描写と、氣の威力の著者が完全に一致してしまったことを覚えて
 いる。津本陽氏は、藤平先生に取材したのではないかと思ったほどである。


(・・・どうも書きづらい。今や師事する藤平光一先生を著者とか、氏とか呼ぶのはものすごく抵
 抗があり、藤平先生の師の植芝盛平先生、中村天風先生も同様である。)


 藤平先生が説かれる氣の威力に関しては、単に本の紹介という形ではなく、いろいろな機会
 で紹介していきたいが、まずは、初めての方、氣の弱った方に、「氣の威力」をお薦めしてい
 る。

 その後、直接、藤平先生にいろいろなお話をうかがうことができたが、素晴らしい方に出会
 え、自分は幸福である。

 書物では、自分のフィルターでモノを見てしまう。藤平先生に権威的なものを感じるのも、そ
 の生き方が、自然であることを氣づかなかった故であった。絶対的な天地をを、完全に自分の
 師として生きていらっしゃること、そしれ、それが自然の姿であること。相対的な世界で、よそ目
 を氣にして生きていると、確かに、権威に映ってしまう。でも、それは、権威ではなく、畏敬とも
 すべき感情であったのだ。


 話が変わるが、数ヶ月前、久しぶりに「きけ、わだつみの声」を読み、戦争中の若者の手記に
 当時の彼らの心情を思ったことがある。中国内地に進軍した、ちょうど藤平先生と同じような年
 齢、立場の方の手記もあった。苦しみを感じた。藤平先生もそうであったのか・・・と思った。

 ・・・が、しかし、最近、また「氣の威力」を読んで、違うなと感じた。彼らと藤平先生の生き方
 が違っていたのだと感じた。だからこそ、彼らは不幸にも帰国できなかったのかもしれない。

以下、今回感じた部分の抜粋。


「これまで長々と軍隊や戦地での生活を記してきたが、それらを礼賛する氣持ちなど私には毛
頭ない。戦地でなければ修行できない、などとも思っていない。たまたま私の青春時代が戦争
の時代と重なったのであり、いかなる境遇、いかなる環境においても、氣を修行し、それを自分
のものにすれば、悲運をはね返すことができる、ということを知っていただきたいがために書い
ただけである。」


いかにもさらりと言われるのである。


最後に、この本の宣伝文句には文句を付けておこう。

藤平先生は、「秘伝」という言葉を嫌われる。天地の姿に、秘伝などないのである。秘伝などと
 言っている武術は、もはや成長の止まったものである。「わしがこのように教えているのだか
 ら、皆さんが私の年には、もっと深まっていなければおかしい。」「わしもまだ修行中。」「わし
 は、死なん。・・・・ただし、生きているあいだはね。」



タオ − 老子

加島祥造
筑摩書房
2000年3月25日初版第一刷
1700円

まえがきもなく詩が始まる。

あとがきには、本書を読む前にあとがきを読むなと書いてある。他の人からの先入観や予備
 知識なしに、いまのあなたのままで「老子」の言葉に接し、自分のなかに共感するものがある
 かどうか、験してほしいからだ・・・と書いてある。だから、これ以上感想は書かないで、僕が感
 じた詩を一遍だけ引用しよう。


われら心と肉体を持つものは

ひとたびタオの道につながれば

身体と心は離れないようになる。

精気(エナジー)にみちて柔らかいさまは

生まれたての赤ん坊みたいだ。

その無邪気な心は

よく拭った鏡みたいに澄んでいる。

その人が国を治めれば

ただ民を愛するだけで十分なんだ。


天と地の出てきた神秘の門

あれを開いて、母と遊ぶことができるんだ。

無理に知ろうなんてしなくとも

四方八方、とてもよく見えてくる。

もちろんタオの人も

生んだり愛したり養ったりするさ、

しかしそれを自分のものとしない。

熱心に働いても

自分のしたことだと自慢しない。

人の先頭に立ってリードしても

けっして彼らを支配しようとしない。


これを玄徳というんだ、すなわちそれは

人の玄(おく)にある深い力が、

いちばんよく働くことなんだ。



一日一生 五十歳からの人生百歳プラン

松原泰道
講談社+α新書
2003年1月20日初版第一刷
880円

新書版の自己啓発形の本である。今年(たぶん)96歳になられ、あまりに有名な松原泰道さん
 のご著書は、正直難しかったのか、さほど氣にもとめなかった。

「一日一生」という言葉もさほど氣にはしていなかったのだが、もう何年も自分の壁を乗り越え
 られなくて、さて、人生もそろそろ折り返し地点に近づいていると感じ始めると、そろそろ感じ始
 めたのかもしれない。講談社の企画にやられたか。

もっとも、まだ50歳には何年もある。それに年齢にはあんまり興味がない。かつて、元NHKア
 ナウンサーの鈴木さんの「男がXX代に読む本」をまとめて一気に読んだが、会社での位置と
 か、結婚とか、家庭とか、転職とか、そういう視点は今はまったく興味がなくて、ただただ人生
 の先輩諸氏のお話をうかがいたいということか。


お茶の言葉で有名な一期一会。これは、藤平宗主からは、今を精一杯生きよという意味であ
 ると教わった。「今」という時、「いま」の「ま」を言った瞬間に「い」の時は過ぎている。「い」にとら
 われていてはいけないのである。あるいは、「いま」の「い」を言うときに、「ま」はまだ訪れてい
 ないのである。「五十歳からの人生百歳プラン」というのはどうも、書かれている内容に矛盾す
 るようなタイトルだが、大切なのは、「一日一生」という方。

白隠禅師の師の正受老人が村人に説いたという「一日暮らし」

「一生を長いと思うな、今日一日しか自分の人生はないと思って励め」

朝生まれ、夜死ぬ。なるほど・・・・、自分の一生はどうだ。さて、今日の人生は生き生きとして
 いたか。。。毎晩、酒飲んで、自殺しているようなもんだ。こりゃいかん。


宮本武蔵の「五輪の書」の書き出しに、「天を拝し、観音を礼し、仏前に向かい」とあり、「天道
と観世音を鏡として・・・筆をとて書初むるもの也」と謙虚に結んでいます。しかも彼は、「仏法・
儒道の古語を借らず」と明言するのですから、ここで彼が記す「天道・観世音」は儒教でいう天
道や仏教の菩薩の観世音ではなく、彼自身の悟りによって得た儒・仏を超えた大きなエネルギ
ーということでありましょう・・・「氣」だ。


まだこない前(さき)をあこがれて取り越し苦労をしたり、過ぎた日の影を逐(お)うて悔いている
と、(人間も)刈り取られた葦のように痩せしぼむ。

過去は負ってはならない。未来は待ってはならない。ただ現在の一瞬だけを強く生きねばなら
ない。

と、釈尊も教えます。「むけいげ」

そしてかかずらわないなら、おそれもない「むけいげ むくふ」と明快に諭してくれます。


氣の研でも学んだ二宮尊徳の歌、


「この秋は 雨か嵐か 知らねども 今日のつとめに 田草とるなり」


今日という一日は、一生のなかの一部分ではなく、一日が自分の全生涯でなければならないと
いうことです。


さらに千利休の歌、


「稽古とは 一より習い十を知り 十よりかえるもとのその一」


いつまにか、宗主の教えに包まれてしまった。一日一生で氣の修行ということだ。



神の微笑

芹沢光治良
新潮文庫
2004年2月1日
438円

 単行本として、1986年に出されている。著者が90歳の時のものだ。

 ここで紹介すべきものかどうか迷った。小説の類、すなわちフィクションは、多分に僕の好み
 が大きいので、自己満足というか、私的なネタをさらすだけだし、感動の度合いも自分自身の
 成長度合いで異なるだろう。(・・・もっとも、ノンフィクションとしても、ここに紹介しているものは
 みな同じか。)

 この話は、果たしてフィクションなのだろうか。この小説家に詳しい人には、そんなことを言っ
 ていることを笑うかもしれないが、この齢まで芹沢光治良という名前すら知らなかった。多くの
 名作を出している一流の小説家なのだ。その方が、晩年になってそれまでの人生で経験した
 不思議な出会いを語っている。

 宗教に走った父の影響で、子供の頃から過酷な生活を強いられる。それが本人の努力と才
 能で勉学をバックアップしてくれる人が現れ、東大に進学し、役所に勤める。結婚後も、フラン
 スに留学。経済学を学び、もうすぐ博士号を取って帰国という段階で、結核にかかり、療養生
 活。そこで若き天才物理学者の語る神を知る。(療養所の自然がまた美しい。)死病と言われ
 た結核を克服して、帰国後、いったん就いた大学教授の職を捨て、小説家となる、多くの作品
 を発表する。老いて、妻を癌でなくし、今は、最期の作品の整理をしながら、これまでを振り返
 る。

 避暑地の楓の木が話しかけたことがあった。実証主義の彼は、帰京してからも庭の木で試
 し、木と会話できることを知る。鳥が木に頼まれて、彼を楽しませるために菜の花を茂らせたこ
 とも知る。近所の老欅との会話を小説にしようと思う。

 ある宗教の教祖の伝記を書いたときのことを振り返る。宗教と神を考えさせる。その後、教
 祖の魂が彼の前に現れ、女性としての側面の話を追加するよう求める。

 ・・・一般的には、フィクションとしか思えない。あるいは、そんなところにこだわるのは愚なの
 かもしれない。だが、やはり、迷ったあげく、僕はこれをノンフィクションと考えた上で、彼の他
 の著書も読み始めることする。神シリーズの次が文庫本になるのはいつのことかわからない
 し、書店でももう彼の本は在庫していない。近くの図書館でも書庫の中のようだ。

 結果、フィクションでもいいのかもしれない。そういう思想を持った芹沢光治良という方が存在
 したのは事実なのだから。

 90歳でこの本を出してから、以降96歳で亡くなるまで毎年一作、神について刊行し続けてい
 るらしい。この本からもすでに身体がかなり老いていることを想像させるが、最晩年のこの驚
 異的な活動について、解説の大岡信さんが、彼の言葉を紹介している。

「大自然の力、親神が、わが子、人間一人一人の魂や生命を、大切にしている愛を思うと、

 人間誰でも、わが魂、わが生命の、尊さを、はっきり認識して、日々、大自然の親を、

 安心させるような暮らし方をしなければならない。

 それとて簡単なこと−喜んで、毎日、感謝して生きればいい。

 そしたら、病まず、死なず、幸福に暮らせます。・・・私がその証拠で。。。」


・・・さて、上の文章を書いて、3ヶ月と少し経って、また読んだので、また書く。

続く「神の慈愛」もまた読むかも知れないけれど、まずは、ここに楔を入れておこう。

思えば、3ヶ月と少ししか経っていないのだ。

 その間、僕は、神シリーズ7作を読み、小説「巴里に死す」を読み、「教祖様」を読み、ついに
は、大河小説「人間の運命」14巻を読んだ。そして、また、この「神の微笑」に戻ったのだ。

 今度は、とてもわかり良かった。初めて、読むと、時代が錯綜していてよくわからない。おまけ
に、登場人物にアルファベット一字をあてるだけであるから、人間関係もよくわからない。

 森次郎にもずいぶん惑わされたが、何だ、人間の運命の主人公ではないか・・・だから、この
作家を知っている人には、これは小説になってしまっているのかもしれない。

 でも、主題は、違う。大自然を創った神について、作者の人生を通じた実体験を追検証しな
がら、語り始めた最初の本で、かつ、その神が、同時進行で、ノンフィクションとして現れている
のである。これは、やはり、謙虚に、受け止めるべき、神の書である。

 さて、僕は、これからどう生きるべきか・・・真実を少し、知ったのだから、少しは見えたかな。


・・・その、一週間後、僕の芹沢漬けはまだ続いていて、古本屋で買った「愛と知と悲しみと」を
読んでいるが、この中にも書かれているように「人間の運命」が縦糸であるなら、こちらは横糸
で、それにしてもすべての小説に、一貫したものがあるのはすごいなと感じる。

 で、GWに芹沢文学館を訪れたときに梶川敦子さんの「芹沢光治良の世界」を購入したのだ
が、これを読んでまた、芹沢光治良というものが本物である確信を得たので、紹介しておこう。
小説家であるから、どうも、どこからどこまでが事実であるのか、最初に気になったことであっ
たが、ここまで浸って、確固たる神を感じた。


「芹沢光治良の世界」

梶川敦子
青弓社
2000年6月30日
2400円

芹沢光治良の弟子のような梶川さんが、芹沢光治良さんを紹介した本である。

第一章は、書簡を紹介し、梶川さんと芹沢光治良さんの関係、人となりがわかる。

第二章は、梶川さん自身が、芹沢光治良さんの兄弟、知人に会って、芹沢光治良さんの姿を
探求する。

第三章は、まさにここに紹介した神シリーズについて、順に紹介している。梶川さん御自身が、
神シリーズを書かれていた頃の芹沢光治良さんと何度も会って話されたことも紹介している。

これらを読んで、自分が感じ、芹沢光治良さんに没頭させた何かが確実に存在し、今後も探求
すべきモノであることを確信した。

何ができるか、何をすべきかはわからないが、それにしても、つくづく思うのだが、わが恩師藤
平光一先生の教えと何も違うところがない。これは一体どういうことなのあろうか。



神の慈愛

芹沢光治良
新潮社
1987年7月20日
1340円

 「神の微笑」に続く「神シリーズ」第2作目。「神の微笑」が新潮文庫から出されて、初めて芹
 沢光治良という作家を知った。その紹介する神が、今まで、僕の感じていた神と同一であると
 いう共感…、とはいうものの僕の神は、観念的な存在であり、生活の中での体験は、何もない
 のだけれど、芹沢光治良さんの場合、90年の人生の中で、実に不思議な体験をされてきたこ
 とを…、その齢になって、神にせかされて著わしたのが、「神の微笑」であった。

 ただ、「神の微笑」はフィクションではないか? ただの空想の世界の小説であったならば、
 僕は、未熟な読者として、完全に踊らされているに過ぎない。その無様をこの場で紹介してい
 るに過ぎない。・・・考えたが、それでも良い。それもまた事実。

 「神の慈愛」が文庫本になるまでは待っていられなかった。図書館で手に入った芹沢光治良
 の小説「巴里に死す」を読みながら、インターネットで古本を発注し、3日後に手に入れた。


 ・・・まいった。


 僕の不安を見透かしたように書かれた2作目「神の慈愛」という本は、最初の「神の微笑」を
 書くに至った経緯を、その頃の生活、体験を交えて、改めて、解説している。「神の微笑」では、
 ある宗教の教祖の伝記を書き直すようにとのことで・・・、すでに没しているその親様が現れ
 る。芹沢光治良の著書「教祖様」のことである。ふつうフィクションだと思う。だから、その書き
 直された伝記が出版されたのなら、その伝記を読みたいものだと思ったが・・・。実は、神にせ
 かされて書いたものが「神の微笑」そのものであったことがわかる。そして、神が本当に書かせ
 たかったものが何であるのか、少しずつわかってくる。

 半ば幽閉されるようにして「神の微笑」が書きあがった時、門の梅の古木が話しかけてくる。
 姿を見せないことに、他の木々も心配していたことを伝える。本が完成したお祝いを言う。それ
 まで、梅の花を咲かせなかったという。かつて、死を迎えていた彼の妻のために、早く咲かせ
 たことも言う。・・・が、しかし、その後、芹沢氏は、木との会話が自然の摂理に反していることに
 気づき、その後の会話を断る・・・・。木との会話はこうして、幕が引かれるものの、人生を振り
 返っての話の中で、子供の頃の自殺未遂の話、そのとき、富士山が引き止めたこと。それ以
 来の山との話が出てくる。(・・・やっぱり小説かと思ってしまう・・・)

 とは言え、「神の微笑」にフィクションがなかったことは、出版した本を読んだ友人、森次郎と
 の会話の中で、明確になる。森次郎は、天才科学者ジャックをはじめとする3人の心友との療
 養所での生活について、その後の芹沢氏の小説に、療養所の話は出てきても、3人の話が全
 く出てきていない。一番見事に書かれた療養所での話、天才科学者ジャックが話す神を知り、
 小説家になることを決意する部分が、実に見事であるが故に、その部分はフィクションであろう
 と氏に迫る。しかし、それは事実であると芹沢氏が応える。


 引き続き、「神の計画」を読んでいる。これはもう、完全に連続していて、切れ目がない。だか
 ら、読み進む前に、急いで、「神の慈愛」を紹介した。これらの本は、一体何なのだろう?

 「神の慈愛」から一部を引用しておく。


 物言わぬお山と話すことが信じられない者があるかも知れない。しかし、僕が自ら大事に心
をかけて多年育てた庭の樹々と対話することを「神の微笑」に書いたが、多くの読者はすなお
に読んでくれた。犬や猫の嫌いな者が、気まぐれに、犬や猫にやさしくよびかけても、すぐ、うさ
んくさい目をして逃げられてしまうが、ペットとして育てる人の話では、犬も猫も人間以上にこち
らの愛にこたえてくれるそうだ。それは、犬や猫にも心があるからだと言うが、樹木もお山も大
自然のめぐみによって存在するもので、やはり心があるから、こちらの愛にこたえるのだ。まし
て、人間同士は、心もあり、その上、言葉があるのだから、私心をなくして誠をつくせば、たが
いに、どんな至福な関係ができるか、考えられないだろうか。



神の計画

芹沢光治良
新潮社
1988年7月28日
1340円

 「神シリーズ」第3作目。神は、ヨハネに習って、3つの作品を出すように言う。90歳になって
 から神にせかされて書いたノンフィクション3作目。

 …いや、僕は、本質的には、もう全然疑っていなくて、このような事実になぜ、今まで気づか
 なかったのか、不思議でたまらない。純文学作品というのだろうか、だからこそ、定期的に僕が
 訪れる八重洲ブックセンターや、神保町の三省堂や書泉グランデのその手のコーナーにはな
 いのだろう。教祖様も、いまや、その宗教団体の圧力で絶版になってしまったらしい。

 ここでどこまで書くべきか、迷う。しかし、早く書いておかなければと思う。

 もっとも、こんなところで、側面だけを紹介しても意味はないのだ。それこそ、芹沢光治良氏
 に失礼というものだ。新潮社は、もったいぶらないで、即、文庫にすべしと感じる。

 ともあれ、正直なところを書いておこう。

 樹々と話す、その会話がどうも信じられない。梅の木が和歌を詠むか?木の能力とは思えな
 いが。。。。ましてや、富士山が話す? ・・・つまり、それは、この人の脳の能力的なものであっ
 て、すべて、心の産物ではないかと感じ始めた。「神の慈愛」では、自然の摂理に反するからと
 木との会話をやめる。。。あぁ、そうやって終わらせるのかとも思った。

 そして、「神の計画」を読むと、子供の頃から、他人の声がしていたという。あぁ、やっぱりと思
 う。アランの分身論というものも出てきて、難しい展開にもなるが、結局、本人の特殊な能力の
 影響だったのではないかと思った。

 ・・・その分身をテーマに「人間の運命」という小説を書いた。ところが、その後、その分身が
 人の姿になって訪れる。・・・森次郎だ。やれやれ・・・。(ここは、まだ謎だ。保留。)

 「神の計画」を書くにあたり、神から、キリストと釈迦とマホメッドの研究を要求される。つまり、
 天地を創造した神はただひとつで、キリストも、釈迦も同じ神が降りたもの。のちの人がそれを
 宗教にしてしまったということ。深い、深い。深いところは本を読んでもらうことにして、感じたこ
 とのひとつは、神に対する理想論、観念論から、早く目を覚ませということだ。

 前作で、感じた、木やモノとの会話で、人には言葉があるのだから・・・ということ、これがあい
 かわらず観念の世界にとどまっていたことを感じる。


「人間さんは近頃、挨拶の言葉をなくしたようやな、朝起きても、むっつりと自分のことをして、
朝食をかきこんで、仕事についてしまわれる・・・なぜ優しい言葉の一つも、かけあわんのやろ
う。これ、いつも言うとおり、神さんは、可愛いわが子供である人類だけに、言葉を授けて、た
がいに愛を語り合い、幸福をたしかめさせたのに・・・その言葉を使わんで、忘れるとは、惜し
いことや・・・これは日本人ばかりやなあ。ふだん、夫婦の間でも、親子の間でも、愛を語るなん
て、見かけないなあ。愛なんて、たがいに解っているから、言葉に出すまでもないと、言うのか
いなあ。たまに、真剣に口にするのは、愚痴か不平で、その時には、ふだん肚にためた言葉
が、一度に口を突いて出て、とめきれないで、相手の心をも、おもんぱかれずに、相手を傷つ
けてしまうようやなあ・・・」


グサリ。樹々とも心を通じ合えるのだから、人間が私心をなくして、語り合えば・・・・なんていう
 レベルで納得しているのではなく、自分の生活をみなはれ・・・ということ。


 神は、すべての子供たちの「陽氣暮らし」を楽しみたくて、人を創ったという。人が生きる目的
 は、そんな苦しいものではなくて、「陽氣暮らし」なのだ。(・・・要検討。)

 ここで、藤平宗主にいただいた色紙の「陽氣、万象を生ず」という言葉を思い出し、また、春
 日大社の葉室宮司がおっしゃる、「ただ神さんを喜ばす日本のお祭り」を思い出す。なにか、や
 っぱり、みんなつながってしまう。おまけに、最後に次の文章が出てきた。


「齢を忘れて、明日からは、毎朝、誕生したばかりの一歳だとして生きよう。そしたら新しいもの
が発見されて、進歩もあろう。そして、毎夜静かに死ぬのだとて己を自然にまかせよう。それで
本当に、一日生涯という生き方ができるのだ・・・・」



人間の幸福

芹沢光治良
新潮社
1989年7月20日
1340円

 90歳になってから「神シリーズ」3作を書き終えて、続けて書いたもの。神から人間になって、
 中身も小説になったのかもしれない。だから、もともとの僕の思いとしては、小説は「作り物」だ
 から、科学の対象にならないと思って、こういう形で紹介するのはやめておこうと思っていたの
 だけれど、「作り物」であっても、真実を表現しているもの、強く生き方に訴えてくるものは、書く
 べきだろうと思う。(そうすると、過去の感動を何冊も追加しなければならないけれど)

 それに神シリーズの芹沢光治良という方を知ってしまった以上、もう止まらないのだ。この「人
 間の幸福」は小説かも知れないが、神シリーズと何ら変わらない。スパイラルに、芹沢光治良
 さんの魂が向上し、僕を導く。

 庭の樹々との会話から始まる。(かつて摂理に反すると会話を止めたのだが、成長してま
 た、自然に始まるのだ・・・)泰山木が臍をまげている。若い植木職人を入れたために、枝を刈
 られ、化学肥料にやられ、樹々が弱っている。鳥たちも来なくなった。自然のめぐみに育てられ
 ていることに気づけという。

 「神の計画」を出版社に渡した日の、こんな様子から始まり、老いていく身体、にもかかわら
 ず続けられる魂の修行、あいかわらず現れる親様と伊藤青年、過去の思い出の挿話、訪れる
 人たち、昭和天皇の崩御で、平成元年となった年。人間の「陽気暮らし」を語りながら、進んで
 いく「神の計画」を実感させられる。



人間の生命

芹沢光治良
新潮社
1991年7月1日
1340円

 90歳になってから「神シリーズ」3作と、続いて、「人間シリーズ」3作を毎年一冊ずつ発表さ
 れている。僕は、初めて最初の「神の微笑」を読んでから、2週間、芹沢光治良を読み続けて
 いる。「神シリーズ」にフィクションはないはずなのだが、あまりにも現実離れし過ぎている。「人
 間シリーズ」は神が望む人の陽気暮らしを小説として著わしているものと思っているのだが、雰
 囲気は、それまでの「神シリーズ」と何ら変わることはなく、おそらく、芹沢氏の人生の中で、接
 した人たちの中で、陽気暮らしを実践した人たちを題材に小説風に紹介しているだけなのだろ
 う。だから、これらのシリーズは、ぜひ、連続して読むべきである。

 もっとも、私の場合、この「人間の生命」の前年に発表された「人間の意志」がまだ手に入ら
 ず、これを飛ばして読んでいる。これがどういう影響を及ぼすか興味深いが・・・。

 読み続けていると、繰り返し繰り返し、神の説くところと、あいまって、芹沢氏自身が修行して
 成長するさま、1987年に神がこの世に人間救済に現れてから、変わっている世の中がリアル
 タイム、いや、事前に紹介され、故に現実味を帯びる。

 「気づき」に少しずつ近づいている氣がする。



大自然の夢

芹沢光治良
新潮社
1992年6月15日
1340円

 90歳になってからの「神シリーズ」3冊と、「人間シリーズ」3冊に続く7冊目は、「大自然の
 夢」と名前を変えた。ここまでの作品を読んでいると、大自然とは、すなわち神であることが素
 直にわかる。ただひとつの神。釈迦もキリストも、中山みきも、教えるところはひとつ、ただ、後
 の人間が宗教にしただけの話である。

 前6作が「である」調であったものが、この作品は「ですます調になり、雰囲気が少し、変わ
 る。芹沢氏の身体はますます弱り、庭を5歩歩くのがやっとになってしまったが、書く文章に変
 わりはない。自らの修行も進み、なんと太陽と話を始め、自然と会話ができるようになる。すで
 に亡くなっている親友との会話も普通に行われ、前6作を知らないと、完全に作り物、あるい
 は、老人呆けと思ってしまうだろう。

 もはや僕も、変わりつつある。神が芹沢光治良に書かせた目的がそこにある。


 人間、無になったら、天の意思を受けて、やさしく、思いやりある人間にならなければ、無駄
だ・・・さあ、覚悟せよ。


 大自然の力、親神が、わが子、人間一人一人の魂や生命を、大切にしている愛を思うと、人
間誰でも、わが魂、わが生命の、尊さを、はっきり認識して、日々、大自然の親を、安心させる
ような暮し方をしなければならない---

 それとて、簡単なこと---喜んで、毎日、感謝して生きればいい。そしたら、病まず、死なず、
幸福に暮らせます。私が、その証拠で---

 ちょうど十年前、そう気が付いて、実行したところ、それまでは弱くて、医者や薬は勿論、鍼や
灸に、世話になった肉体が、健康になって、この十年間という間、一度も風邪もひかず、医薬
の世話にならずに、年に一作の、書下ろし長編小説を発表し、95歳の老齢にも拘わらず、現
役として、毎日、書斎にこもって、原稿用紙を、耕す小作人生活が、できているのです。



天の調べ

芹沢光治良
新潮社
1993年7月10日
1340円

 1993年3月に永眠された芹沢光治良氏の最期の作品。

 新潮文庫から「神の微笑」が発売されて、初めて、芹沢光治良氏を知り、その続きの2冊をイ
 ンターネットの古書販売で手にいり、続いて図書館の閉架書庫から続きを借りて、(途中、なぜ
 か「人間の意志」だけは手に入らなかったが、)ここまで、一気に読んだ。

 インターネットで調べると、この本には、未発表の作品が混ぜられているようだ。たぶん、そ
 のせいで何か、混乱した。

 かつての親友や、妻が聖体となって現れる。「大自然の夢」の出版を祝って、天の世界でお
 祝いの会が催される。太陽の声が聞える。大自然の声が聞える。生活の中でも、天から美しい
 音楽が聞えてくる。妻との出会いの頃が、聖体の妻が語る形で紹介される・・・・

 それはそれで、理解できる。

 だが、なにか、錯乱気味の雰囲気になっていると思うのは、やはり、未発表の作品を混ぜて
 しまったせいではないか。。。。改めて、その日付から、最期の年に書かれたものを拾い読み
 すると、流れになる。12/29に何かが起きたようだが、その話は、次の作品に書けば良いと神
 が話している。それまでの話の中でも、まだまだ作品が出されていく調子で書かれているが、
 半ばで、ついに、物理的身体が果てたということか。ただ、借り物の身体に気づいたが、それ
 まで自分で酷使してきたことを反省する部分もあった。

 確かに混乱の雰囲気を感じるが、それは編集のせいではなく、死ぬ間際の人間の状態では
 ないかとも想像してしまう。

 90歳から96歳と8ヶ月まで書き続けられたこれらの作品群は、ひょっとして、聖書に匹敵す
 るものではないか。

 たぶん、これから、僕の探求が始まる。


天は、喜び、

天は、声をかけ、

天は、地に誠の雨を降らし、

天は、大地を潤し、

天は、囀る鳥の声に、尊き息をかけ、

天は、囀る鳥に、喜びを伝えよと、声をかけ、

天は、常にこの世の中を守り、この世の中とともにあり、

天というは、人間の心臓と同じ、この世の心臓である。

天の声は、あたかも、この世を動かす要となって、世を助け、世を動かしている。

天は、或る時、大きな夢をみた。それは、この世を作るという夢である。

天は、この世に声をかけ、泥海のなかより、しんなるものを選び出し、

天は、この世の要を作りたもうた。

天は、又、大きな夢をみた。広大な野原に、住む人々の歓喜の声を聞き、

その人々に、さまざまな技能や能力を与えたが---

天は、その姿を見て、人々がどのように、その才能を自らのなかに抱き、

天の心に適う生き方をするか、常に見届けていたが---

なれど、人々は争いのなかに、悲しみを置き、天の意思とは逆ろうて、人をせめ、

強欲に走り、人をいじめ、人の心に、まさに暗い道をつけて行った・・・・



死後体験U

坂本政道
ハート出版
2004年2月19日
1500円

 実は、坂本さんの本は、最初の「体外離脱体験」も「死後体験」も読んでいる。不思議な体験
 をされているし、まもともな本なのだが、僕にはインパクトがなくて、ここには紹介していなかっ
 た。芹沢光治良さんの本を読んでいる時、最新作の「死後体験U」が発売になったから、「事
 実」を整理するために読んでみた。・・・なるほど・・・と思う。

 坂本さんは、東大理学部で物理を学んで、カナダに留学後、ソニーに入社。米国のベンチャ
 ーに転職して、2000年に変成意識の研究に専心するため退社されている。経歴の示すとおり、
 まともな論理思考を持ち、もともな科学知識を持った、まともな人だと思う。

 そんな人が、アメリカで幽体離脱(体外離脱)を経験し始める。それが最初の本だ。その坂本
 さんが、モンロー研究所を知り、ヘミシンクという技術で、体外離脱するプログラムに参加し、
 自ら探り始める。これが2番目の本。体外離脱体験者がモンロー研究所で体験するという話は
 興味深いが、坂本さんの場合は、死後の世界という観点の興味が強かったみたいだし、モンロ
 ー研究所に関しては、すでに、森田健さんが、「不思議の科学」で紹介していたので、僕にはさ
 ほどインパクトがなかった。森田さんもまともな知識を持った、こちらは確か富士通中途退社の
 エンジニアだ。(性格がまともかどうかは、ちょっと・・・?)

 今回の坂本さんの本は、モンロー研究所の最新プログラムに参加された体験を元にしてい
 る。今度は、太陽系を飛び出していく。・・・ふむふむ。

 ちょうど、芹沢光治良さんの本を読んでいて、そういう(?)世界の人(?)たちとの交流が出
 てきて、僕の中では、根底は事実だろうと判断しているから、そういう事実と、モンロー研究所
 で体験した人たちの事実に矛盾がないか、あるいは、同じものなのか、確かめたくて、読んだ
 わけだ。

 芹沢光治良さんを読んでいて、このような論理的なストレートな文章を読むのは、実に楽だ。
 発想の展開も、感情の表現も実にストレートで、年代が自分に近いせいもあるのだろうか、一
 日で読めた。

 結果、・・・ふむふむ。そういうもんだろう。しかし、芹沢光治良の世界は、どうも地球に固執し
 ているので、その辺がフォーカスレベルでいうところの低い世界なのだろうか。サムシンググレ
 ートは、宇宙にひとつなのだろうか。ただ坂本さんの体験、芹沢光治良さんの体験、それぞ
 れ、ひとつひとつ事実で、そのうち、自分の解を見つけたいものだが・・・。

 引用する。


・・・

そうだ、わかった。わかったぞ!

太陽系は生命エネルギーと愛情の表出なのだ。地上の生命や大自然がそうであるように。

子供たちが愛の表出であるように。

太陽も惑星も、地球上のすべての生命も、山や岩なども、すべて同じ生命エネルギー、愛情エ
ネルギーの表出なのだ!

山も草原もすべてそうなんだ!

何で今までわからなかったんだろう。ガイドたちはこれを教えたくて、ずっと森林や草原の景色
ばかり見せてくれてたんだ!

こう直感すると、今まで執拗に見えていた景色は消え去り、真っ暗な宇宙空間にいた。

「何が空間に把握できるか、感じてみなさい」

空間はミステリアスな生命エネルギーで満ち満ちているのが感じられる。

何とも不思議だ。

何もないはずの空間なのに。

生命も太陽系もこれと同じもので作られているのだ。

不思議だ。

生命エネルギーというのは、ミステリアスなエネルギーというのがぴったりだ。

・・・・



人間の意志

芹沢光治良
新潮社
1990年7月5日
1340円

 芹沢光治良さんが90歳以降、書かれた8冊の神シリーズ(実は、神が3冊で、人間が3冊、そ
 れに、大自然と、天が続くのだが、これはみんな神シリーズだ)の中で、この一冊だけ、読むの
 が最後になってしまった。

 最初、新潮文庫の「神の微笑」を書店で見つけた。それが、すでに1986年の作品であったこ
 とを知ったが、こんなものがあったのかと驚愕した。

 準備が出来た頃に師が現れるとはよく言ったもので、僕は、1986年当時は、まだ藤平宗主の
 ことも知らず、目の前の形だけの仕事に追われながらも、新婚の形だけ幸せな、ハレー彗星
 に惹かれる生活だった。小さな頃からの不可思議な世界を感じながらも、そういうものは、人
 間の脳内現象であろうと片付けて、バブルに向けて、ニュートン力学の世界を生きていた。

 バブルがはじける頃、親父が癌になり、闘病生活、生き返ったが、親友が、花見の酒で事故
 死。その後、親父の癌が再発し、阪神大震災の頃、大手術。とりあえず、手術は成功したもの
 の、オウムが大事件を起こした頃、肺炎で死んだ。四十九日の法要の時、Aが逮捕された。

 その後、僕は、仕事でも大きなプロジェクトを失敗して、よれよれになっていたとき、最初の
 師、藤平宗主の本に出会った。「万有を愛護し、万物を育成する天地の心を持て、我が心とし
 よう。心身を統一し、天地と一体となることが我が修行の眼目である。」

 芹沢光治良さんの「神の微笑」は、藤平宗主の教えに全く共通するものである。

 ただ、宗主は、「死んだ先のことはわからん。わしだって、体験したことがないんだから。生き
 ているうちは、生きていることだけを考えればよろしい。死後の世界など、死んでから考えれば
 間に合う。」という明快な話をされていた。それにおそらく、「木と話をする?そんな馬鹿なこと
 はない。誰もがYesと言って、Noと言わないのが天地の理だ」とおっしゃる。

 芹沢光治良さんは、樹と話をした。おまけに、このシリーズに入ってからは、太陽とも話をす
 る。宗主ならば、「そんな馬鹿なことがあるか!」とおっしゃるだろう。

 だが、宗主に教えを受けた中に、「太陽を見つめる」というものがある。ほとんどの人は太陽
 を見つめることができない。でも、自分の氣が太陽に行って、帰って来ると思えば太陽を見つ
 めるのは容易だ、氣を出すことだと、教えを受けた。太陽まで、光のスピードで、確か8分。往
 復16分だ。そんな、馬鹿なとは言えなかったけど。

 そもそも、氣圧療法が僕にはいまだに理解できない。氣圧療法士としての看板をいただいて
 いながら、不謹慎だが、誰もがYesとは言えないではないか・・・と思ってしまうのだ。

 でも、芹沢光治良さんの本を読んでいると、そういう判断の世界があることを実感する。

 つまり、僕にとっては、第2ステップなのだ。

 「神の微笑」のあと、いても立ってもいられなくなって、本屋で芹沢光治良さんの本を探した。
 一冊もない。図書館で探した。文庫本の「巴里に死す」があったが、その他は、閉架書庫だ。イ
 ンターネットで探した。アマゾンの古本紹介で、「神の慈愛」と「神の計画」を見つけ、すぐ購入し
 た。届くまで、「巴里に死す」を読む。3日後、届く。むさぼるように読む。・・・が、この3冊を読み
 終わるとどうなるのかという不安があった。あまりにもでき過ぎているではないか・・・。

 図書館の閉架書庫で、続く4冊を借りた。「人間の意志」だけはなかったが・・・。

 続く本は、小説だということだったが、全然変わらない、神シリーズに続く、「事実」だった。

 そして、この「人間の意志」。意志弱い、僕のための本であったか・・・。

 平成元年。ベルリンの壁の崩壊。

 やれやれ、娘が生まれた年に、こんな大きな世の中の変化を、僕は、さほど感じていなかっ
 た。死んだ親父のこの年の日誌を読んで、息子の子供の誕生に少しも触れず、経営する社の
 事ばかりに触れてあったのが悲しかったが、大自然の親神に取れば、僕のような人間こそ悲し
 かったかもしれない。

 「人間の意志」の中では、芹沢光治良さんが、ルルドの泉ならぬ「神の水」を作り、病人に奇
 跡を与える話も出てくる。人間は、みな神の子であり、私利私欲を捨てて、鳥も樹もみんな仲間
 である気持ちになれば、病気など治るのだ(と思う)。氣圧療法も、よく、天地に任せろと言われ
 る。同じではないか。


 僕の家の者は、ささいな事でも、大自然のめぐみによって、みな助けられているが、これは僕
の家族だからではない。大自然を識って、わが命の親と仰ぐ者は、誰でも、大自然はわが子と
して、いつくしみ、助けてくれるのだ。

 この大自然こそ、大宇宙を正確に動かしている力であり、何億年前に、地球上に、人間はじ
め、あらゆる生物を創り、今日まで育んできた、唯一の親神である。従って、人間は、何かの
信仰がある、なしに拘らず、善人であろうが、悪人であろうが、誰も大自然にとっては、みな等
しくわがいとしい子供であり、常にいつくしんで、見守っている。ただ、悲しいことに、人間がそ
のことに気がつかないだけだ。


・・・

 大自然は素晴らしい。親として仰ぎ近づけば、必ず親の愛で応えて、満足させてくれる。求め
れば、多くのことを教え、みちびいてくれる。そして、こちらに要求することはなくて、ただ親の愛
をそそいでくれるだけだ。

 悲しいことに、多くの人は大自然を、ただ自然だと思って、偉大な親であることを知らないた
めに、大自然もただの自然に過ぎないようだ。実に惜しいことだ。くどいようだが、是非とも大
自然を---偉大な親神だとして仰ぎ、眺め、接して、その指示することに心を傾ける訓練をする
ことを、おすすめする。

 大自然は、いとしいわが子たる人間であるとして、必ず愛をもって、どんなことにも応じ、答
え、教示するが、それが古い、古い過去のことであれ、遠い未来のことであれ、語ってくれる。
無限に親の愛もそそいで、貴方を楽しませてくれる。最初こそ努力を要するが、やがて楽しくな
って、労せずして、いつの間にか大自然と対話して、ご自身が大きく成長したことに気付くばか
りでなく、大自然が如何に広大なものであるかを理解できる。しかも、その大自然が、無限の
愛をそそぐわが親だと認識したらば、貴方の人生は、それだけでも極楽になれるのだが---。



気の発見

五木寛之
平凡社
2004年5月25日
1200円

 五木寛之が気を発見したようなので、新聞広告を見て、早速その日のうちに駅の本屋で購入
 した。芹沢光治良という小説家が、見事に神について書いているから、五木寛之というだけで
 興味深く、中身も全く確認しないで買ったものだ。この人の「風の王国」は好きな小説のひとつ
 である。風のように歩く人たちに、その手の興味を覚え、かつての日本人の歩き方にまで思い
 を馳せ、それがその後、姿勢やら、甲野さんのナンバ走りへの興味につながっている。もちろ
 ん、小説だったから、プラスアルファの魅力部分が大きいのだ。

 中身は軽く読める。ロンドンに住む気功家望月勇さんとの対談集だ。基本的に、目新しい内
 容はなく、強いて言えば、望月さんの気の源流は、ヨガにあることらしいことで、いわゆる中国
 系の気功家ではないから、その点でも、逆に、これまで感じているところと違和感なく、ひとつ
 の新しい証拠のデータとして、ここに紹介しておこう。五木寛之が書いているから、読みやすく、
 お薦めである。ただ、五木さんや望月さんの解釈が一部根拠のない飛躍したものである部分
 があるので、この辺は、ちょっと?だが、まあ、対談集だから、いいか。

 気の存在に関して、五木さんは、愛を科学で計れないのに、愛を信ずるのと同じようなもの
 で、科学で証明できないからと言って信じないのはおかしいし、逆に、科学で証明できるような
 程度のものではつまらんとだと言っているが、まあ、それはそれでいい。愛はだれでも経験す
 るが、病気を癒す気は、誰でも経験できるものではないから、僕は、確実な証拠を探している
 のだが。

 第一章「気の存在」 第二章「気の力」 望月さんの気の紹介。ロンドンで施術しているからと
 いうわけではないが、ひょっとして、バーバラアンブレナンの「光の手」なども、単に「気」の話で
 はないかと思ってしまった。彼女は、ユニバーサルフィールドエナジーと名づけているが、望月
 さんは、宇宙の無限のエネルギーと言っている。

 第三章「気と想念」 遠隔治療の話は、(治療という言葉を使ってはいけないと思うが、)望月
 さんの気も遠隔で作用するという話。そういう信じられないことの例として、比叡山の千日回峰
 行者の話が出てくる。9日間、水も食べ物も口にしないという事実。・・・確かに。歩き方の話が
 出てくるのは興味深い。武道のすり足は、道場だけの話で、千日回峰では、通用しないという
 事実。

 第四章「気と治療」 治療という言葉はまずいと思うが、でもまあ、望月さんは、ロンドン在住
 だし、現実に治療しているというのが事実だ。漢方と中医学が違うというのも初めて知った。土
 地の「いやしろち」と「けがれち」。僕が毎週惹かれて行く池は、絶対に「いやしろち」だ。

 第五章「気の思想」 日本人の歩き方の話が出てくる。明治以降の軍隊教育の話も。ロンド
 ンにいると、日本人は歩き方でわかるそうだ。これは、水田での農耕からきているという話。

 第六章「気と呼吸」 呼吸は、宇宙の無限のエネルギーを補給するということ、呼吸の呼は吐
 く、吸は吸うだから、吐くから始める・・・全く、藤平先生の話といっしょ。どこかで聞いているの
 ではないかと思ってしまう。

 第七章「気とヨガ」 ヨガの究極の目的は宇宙との一体感だそうだ。やれやれ。ここもいっし
 ょ。興味深いのは、身体の固い人に効果が顕著に現れるとのこと。太極拳もいいと書いてあ
 る。ふむ、僕としては、ヨガを勉強する必要があるかもしれない。

 第八章「気といのち」 第九章「気の声」

 力を抜いて、リラックスし、直感の声に耳を傾け・・・ちょっと、五木さんの体験から来る結論に
 持って行っている感もするが、瞑想も大事だということか。

 いずれにせよ、強く感じさせるような新しい事実も説得力もない本だが、自分の感じている
 「気」の指向と、一致している事実を確認できた本であった。思えば、僕は、山ほど本を読み、
 話を聴いて、今の指向を持っているが、考えてみれば、よく一冊の本にまとまって、読みやすく
 できているものだ。どれだけ、人に影響を与える本であるのかは疑問なところはあるが、やは
 り、五木寛之が書いているところに意味があるのだろうと思う。



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